ポジティブになれ

小学生

記憶はあいまいなので、想像もありますがお読みいただいている皆様には感謝申し上げます。学生時代は、勉強できない代表です。繰り返しになりますが、私がブログを始めたのは1円稼げるかな?ネットで色々調べたら「ブログ1記事あたり3000字以上書かないといけない。文章力も必要。継続すること。100記事以上。などたくさん書いてありました。皆さんのご想像通り全て私には難しいものです。でも挑戦してみようと、3日ほど前から始めました。まだ2記事しか書いていませんが、相当時間がかかりました。1記事6時間くらいかかりました。「そんなにかかってこの文章力」と言わないでください。タイピングもかなり、遅いのもあります。でもこんな私が1円稼げたら凄くないですか?それも他力本願と言われたらそうかもしれません。ブログを見ていただいた方のちからですから、閲覧者が多くないと、収益の土俵にすら乗れないからです。この文章も文字数稼ぎ書いています。

「できる」の続き書きますね。

3年生

私に付き添いをしてくれていた先生が担任になってくれました。2年背の時は、週に2日が母の送り迎えだったのです。少しずつその日が増えてきて、養護教諭(保健室の先生)がついてくる日などもあるようになりました。今思えばですが、私の人見知りやうまく溶け込めていないと先生方と母が話したりして配慮してもらったのではないかと思います。(母は授業中は、保健室で待機するようになっていたので)このころからは体育の授業も母なしで参加するようになりました。

4年生

トイレとかも友達に連れて行ってもらったり、するようになりました。このころからが皆さんが普通に送る学校生活に近くなりました。私の行っていた学校では4年生からクラブ活動が週1回授業でありました。私は、将棋クラブにしました。顧問が担任、場所が私の教室。これも配慮だったのだと思います。こう書いていると今更ですが、相当配慮していただいていたのだろうと改めて感謝します。ちなみに担任をしてくれた先生達とは年賀状のやり取りをしています。

人の意識がいい方向に変わった例が次の5年生で出てきます。

5年生

クラスがあって新しい先生が担任になりました。ちなみに、先生はその小学校に5年ぐらいいた先生でした。年齢は28歳ぐらいのスポーツマンでした。この先生がまたすごい先生でした。これもい生でかかわっていただいた先生と母や祖母のおかげだと思います。

2学期が始まってすぐ席替えがありました。そこである友達と一緒になりました。最初は冷たい感じでそっけなかったのですが、取れないものを取ってもらったり、話しかけてくれたことに答えていました。緊張しなくても足に力が入って良く机に足をぶつけたり、聞き取りにくいかもしれないが話していました。そうこうしていたら、いつの間にか冷たい感じも消えて逆にからかわれるほどです。

それまでの雰囲気「あまり近づくな。なんでここにいる」みたいな感じだったので、基本いないものとして扱われていた。文章の初めで書いたように、席替えのあと雰囲気「どうした?}と声をかけてくれたり180度変わったのです。のちにその友達が、言っていたことなので本心だと思います。それがこちらです。「障がいがあるやつが、何でここにおるん。そんな奴のために養護学校があるのだからそっちに行けよ。車いすとか邪魔。」と仲のいい友達と話していたそうです。話をしていた友達は「そこまでいわなくても」と思っていたそうです。担任も私を意図的に避けているのはわかっていたようであえて近くの席にしたそうです。話があべこべになりますが、本人と担任が話していたのをさきに書いてしまいます。これは30歳の時にあった同窓会での話です。「小学生のころお前のこと嫌いだった」やっぱりと思って話を聞いていったら先生も加わり、話が膨らみました。友達が先生に「わざとこいつと近い席にしたでしょう嫌っているのを知っていて。」先生「うん、ここまでお前が変わるとは思わなかった。」先生は続けます。「お前が」世話をするまでなるとは思わなかった。それどころか、お前は体育の帰りとわざと遅く一緒に戻ってきたやろう?なんでそこまで変わった?」友達「バレてました(笑) 障がい者は知能的に低いし理解もできないと思っていたけど。こいつ(私)は動作が遅いとかはあるけど、話は理解するし、笑うし話す。ただ歩けない、姿勢が悪いとか見た目だけであとは普通じゃん」と思ったら避けるのが、馬鹿らしくなってやめたそうです。今度は友人が先生に「校長とよくケンカしていましたよね?こいつ(私)の事ですか?」と聞いたら「体育の授業の事はそうやけど、ほかの事でも色々あった。」と話していたのを言聴いて、そこでも心の中で感謝していました。

話を戻しますが、5年生になると母は完全に送り迎えだけになっていました。授業もみんなと一緒に受けていました。移動教室も友達に車いすを抱えてもらう形で移動していました。(4年生の終わりからだったかも。)

国語の授業では、音読もすることがありました。文字を目で追うことも苦手だったうえに、さらに人前で話すのも苦手だったので相当時間がかかりました。算数では、黒板に解答を書くこともありました。理科では、実験の時など、アルコールランプに火を付ける経験やその補充をさせてもらったりしました。余談ですが、小学校の科目の中で唯一みんなと競える教科でした。多分読んで覚えることが少なく、実際に目で見れることが多かったからではないかと思います。

社会で印象が強いのは社会科見学です。今まですべての社会科見学に参加はもちろんさせてもらっていました。先生がおんぶして建物の中を見せてくれたので印象により強く残っています。その日は吉野ケ里遺跡での見学でした。ガイドの方から説明を受けながら周る方式でした。私も友達に押してもらいながら一緒に周っていました。そのとき「先生なんで僕らはあの建物に行かないの?」という友達の声が聞こえました。先生がガイド方と話して私たちも行くことになったのです。その建物の中を見れるようになっていましたが、私は無理だから下にいるものと思っていました。高床式倉庫を再現した建物だったからです。しかし、先生は「行くぞ!お前もみたいやろ?」といったのです。「でも」もじもじしていた私に「いいから行くぞ!」と上まで連れて行ってくれました。車いすは下に置いたままで。これは想像なのですが、ガイドの方に上まで車いすを上げていいかなど聞いていたのではないかと思います。おんぶで上がるのなら問題ないと言われたのでそうしてくださったのではないかと思います。私にとっては、とてもうれしいい出来事でした。なぜなら、そのころからすでに家では、買い物には連れて行ってもらえずほしいものは頼む形になっていたからです。[買い物の連れて行って]と頼むと、祖母などが「大変だから家に居なさい。」と言われていたのでなおさら嬉しかったのです。

後日先生が教室で、「ガイドの方は車いすの子がいたから外した方がいいかと思って」と言われたと聞きました。そのあと衝撃の事実が「それと建物の入り口前までしかダメだったみたい。本当はだめなのですがこのグループだけ大目にみます。みんな楽しそうなので」とも言われたそうです。そういうと先生は茶目っ気たっぷりに「お前たちがはしゃぎすぎて中まで入るから」と、「いやいや先生が中も行こうと言ったでしょ?」誰かがツッコミを入れると笑いに包まれました。

続きは次回。

ここまでお読みいただいてありがとうございました。感謝申し上げます。