評価

日常

成績の評価は同じ問題を解いてその中で高得点を取ったものから評価されるのは、点数という絶対的物により行われるのでわかります。それまでの過程を一切無視して判断できますよね?しかし、そんな中でも等しくなければいけないのが、あると思います。それは当人の意志によって使える時間です。試験時間は画一ですよね?しかし、家庭環境などで選択できる時間には差がありますよね?だから大学は違うかもしれませんが、内申書というものがあるのだと思います。比重は小さいにしても成績評価以外でも本人を評価しようという。多角的に物事をとらえ判断しようとしている結果だと思います。私はこれに助けてもらったのかもしれません。

日本国憲法に義務教育がうたわれている箇所があります。この規定は「すべての者は等しく教育を受ける権利を有する。」とあったと思います。「これで本当に平等なのだと」思いました。しかし、解釈を読むと「等しくとは教育を受ける機会のことをいい、レベルを指したものではないと解する。」とあったのです。これでショックを受けたのを覚えています。

学校

私は以前の記事で,高校まで普通学校を卒業したことは書いています。よく考えたら高校は現在でも義務教育ではありません。私は、県立高校を卒業しています。多分配慮が必要だということは県も承知していたはずです。県立の特別支援学校もありますから。はっきりと受け入れ拒否はできなかったのかもしれません。そちらを薦められましたけど。県立学校となれば、県の指示は絶対的なものになりますよね。結果として、私は卒業できたということは、現場の判断(評価)で条件付きでも認められたのですよね?評価で客観的性を求めるのは不可能ですよね?

社会

年功序列は終わり、成果主義、能力主義、とか言われていなすよね?では公明正大な絶対的評価基準は存在していますか?私はないと思います。今でも派閥は存在し主流派であれば出世する。何も大企業に限ったことではないと思います。いつもYouTubeの有名人を出して申し訳ありません。鴨頭嘉人の動画で「社員の仕事は俺を気分良くさせること」や「うちで忙しいのは新人。俺は暇」とか言われていたときは、納得はできませんでした。今も。でも動画の続きを見ると「コンテンツが自分自身だから、みんなで俺の機嫌取ることで売り上げが上がる。」と言われていたので成果主義から見れば正しいのだろうなと思いました。しかし、そういった効果もなく重要ポストについて自分勝手にふるまいその方を支持する人は経営者を右から左で受け流す感じ。経営者はそれを放置。これはどうなるのかなと思います。まぁ雇用の自由や内部の統治はある程度自由が法律で認められてはいますけど。あくまで一定の範囲で無制限ではないと叫びたい。

とある大企業が男女で5歳差のある定年規定を設けていました。これは法律違反となり、会社としてこうした扱いをすることが出来なくなりました。

しかし、今でも貴方は○○だから正規にしないなど似たようななことを平気で行っています。もうあきらめたほうがいいです。もちろん明らかな非合理的なことばかりでなく、出来るだけ公平に見て、雇用したら出来る限りのサポートをして会社に貢献してもらおうとしている会社もあります。正式名称はわすれてしまいました。「皇潤」という商品を販売している会社です。 この方に人として近づけるように頑張ります。

皆さん

もちろん結果で公正に判断してくれる人もいると思います。しかし、そのような方はごく少数だと思ってください。

人は、好き嫌いで決めるのです。評価は、評価者の好き嫌いで決まると思ってください。(社会では)なので相手に気に入られるトレーニングをすることをお勧めします。ただお願いがあります。そのために周りをおとしめて、自分を上げるのだけは絶対やめてください。

おっさんのボヤキでした。

日常
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ゼロからの挑戦