小学生の思い出

小学生

今回は小学校の思い出を書きたいとおもいます。

出生時の話に戻ります。生まれて、標準的には首が座ってもいいころになっても私は首が座らなかったようです。出生時の病院か別の病院からかはわかりませんが、専門的な施設を紹介されたようです。そこで障がい認定1級を受けました。生まれて1年ほど経った時でした。そこは、施設と病院機能を併せ持つところで、都道府県も運営に関わる所でした。先ほど病院機能も併せ持つと書きました。病院機能について書きたいと思います。診療対象は、整形外科、小児科、歯科、リハビリテーションです。病院機能を担っていたのは、なんと私が生まれた大学病院の医学部の教授が責任者でした。施設機能は、基本18歳未満までとなっています。そのため18歳以上で入院するには治療必要があると認められたら可能です。

私はそこでリハビリや必要があれば治療(手術)をしたりしました。そこは、小学生以上は1人で入院するのですが私は入学前に治療することばかりだったので祖母と一緒に入院していました。祖母のおかげだと思いますが、看護師さんや先生には評判が良かったのです。小学生にはなってから、早退してリハビリに行ったり、していました。数か月に1度は診察があり嫌でした。「歩く練習せんといかんよ」とか注意されることが多かったからです。

この話をしたのは、だれでも買われるという話をしたいからです。5年生の時の話です。入院して手術することになりました。5月から8月いっぱいの予定だったのですが、その期間で行内キャンプが予定されていたので、私は残念なようなほっとしたような複雑でした。勉強は、病院に分校があったので転向扱いになりました。分校での話はまた別の部路にしたいと思います。私の受けた治療は、なるべく本人の筋力を保つことを目的にして治療でした。そのためなのか、余計な力が入っている筋肉を少し切るというものなので術後2週間でギブスを外してあとはリハビリするという流れでした。ギブスが外れてリハビリに入れば、土日は外泊可能だったので、ほとんど外泊していました。

 家に居るときに電話が鳴りました。出てみると「元気?」とか聞かれて「誰だろうと」思って聞いたら、「担任の声忘れた?もういい知らん。」と、ちゃかす先生でした。そのあとも何度か連絡をくれました。

あと1か月くらいで退院予定の日が来るというとき、看護師さんが男性を連れて分校の廊下を私の方に歩いてくるのです。そして私の名前を呼ぶのです。私は視力が悪いので、近くに来られてよく確認しました。すると校長先生でした。しかも手には袋があってその中にはチョコレートが沢山入っていました。驚いて先生に聞くと「妹さんに聞いた。もし食べきれなかったらみんなで食べて」と言われて先生と少し話しました。その中で「しっかり、頑張ってリハビリとかして戻っておいでね。みんな待っているよ。戻ってきたら校内キャンプもあるからね。」え?たしか私が、入院中に終わっているはずでは?と思っていました。その日、看護師さん「遠く離れたところに、担任の先生が来るのだけでも珍しいのに。一人の児童のために校長先生がお菓子を持ってお見舞いに来るなんてすごい。親戚とかじゃないよね?」と私に聞いてこられました。今となってはすごい事と分かります。私が2年生の時に赴任された先生でした。これは偏見かもしれませんが、車いすだというだけで、事なかれ主義の人ばっかりではないかと思っていたので。本当に私を受け入れてくれた小学校はすごいと思います。

退院後、本当に校長先生が言われていたように校内キャンプがありました。私も参加しました。のちに分かったことなのですが、学年の先生たちに了承を取るのも大変だったと思いますが、それを校長先生話すのは更に大変だったと思います。しかもその年はグランドの工事が予定されていたにも関わらず予定を変えてくれた先生方はすごいの一言です。またそれを私に説明するのがひとひねり、「お前がいない間にやっていたら枕元に恨み節で立たれるのがいや」そもそも私立てませんよ。友達も変更を受け入れてくれてありがとうの一言です。

6年生

私たちのクラスは掃除当番とかに職員室や校長室なども入ってきました。それらの場所も私がグループの中もと一緒に掃除しました。掃除の時は床にじかに座って雑巾がけをやっていました。これも校長室での話です。冬も雑巾がけをしていたら、「冷たいでしょう」と言ってあるものを入れてくれる校長先生でした。そうです。バケツの水に、過失のためにストーブにかけてあるお湯です。

クラブ活動もバスケットボールクラブに入りました。担当の先生が、担任の先生だったので「先生が、6年生の時も担任だったら入っていいですか?」これまた意外な答え「別に誰が担当でも入ればいい」と私自身も断られると思っていたので本当の驚きでした。担任が変わらなかったので、本当にクラブを選択しました。実は担任がバスケットボール関係ではすごい方でした。九州の審判部長をされていたのです。今考えたら、数日休みを取られていたのを思い出しました。その時は他県で行われる試合の審判をされていたようです。先生が学校に来られた時、さとうきびをお土産もらってかじったことを思い出しました。クラブ活動はバスケットの基礎練習にも参加させてもらいました。パス練習、体力づくり、シュート練習、ゲーム形式、すべて参加させてもらいました。

パス練習

バウンドパスこれは比較的私でも取りやすいパスなのでこのパスの練習になるとほっとしていました。なぜなら10回連続キャッチできるまでとか、私も例外なく課題が課されるからです。もちろん、キャッチできなければ。次に進めないということはお分かりだと思いますが、相手をしてくれている友達も足止めなのです。

体力づくり

みんなは片足とびとかで、コートの中を移動している時に、私は自力で漕いで何秒以内にコートのある所までいくとか私用のメニューまで考えてもらって参加させてもらいました。

シュート練習

小学生のリングの高さは一般よりは低いとはいえ私には届きません。でも届くように練習した結果、10回に2回は増したぐらいからですが届くようになりました。しかし試合形式では使えません。そこでどうしたらいいか先生に相談したら「どうしたいいかな」と先生も悩んでくれました。そんな時、校長先生が一言「リンガの代わりにここにゴミ箱をはめ込んだら」と。担当の先生も「それはいい。そうすればおまえも得点決められるな」とその一言で特別ルールが始まりました。そこ路から試合形式の連数の時も自分で漕いで動く様になっていました。動きが激しい時などは審判をさせてもらうこともありました。担当の先生が有名だったのもあるのか練習試合もよく組まれていました。私は応援とかタイムキーパーをやっていました。

クラブ活動でする最後の練習試合、私はいつも通り応援をしていたら「最後の2分お前出す。相手チームと監督にも特別ルールをOKもらったから。」と最後に試合に出してくれた、先生や相手チームに感謝です。本当に頑張ったらいいことあると思った瞬間でした。

もう一つ印象的ことがあるので次回のブログで書きたいと思います。

ぜひまたお読みいただければ幸いです・